昭和41年08月09日 朝の御理解



 御理解 第58節の1節に
  「神がよく見て居る。しっかり信心の帯をせよ。」と、

 神がよく見て居ると、信心の帯をしっかりせよと。神様が見ておって下さると、神様が見守っておって下さると。どう云う様な場合でもどう云う様な事にであっても、神様が見ておって下さるのだから聞いておって下さるのだから。しっかり信心の帯をせよと。しっかり信心の帯をさせて貰うと云う事は、どう云う事だろうかと思う。毎朝の御祈念にお参りさせて貰っているから、しっかり信心の帯が出来て居るだろうか。しっかり信心の帯をしたら、どう云う事になって来るだろうかと云う風に考えて参りますと。
 お互い信心させて頂いて居るけれども。しっかり信心の帯をして居ると云うところまでは、いっていない様な気がする。椛目の人達の場合を言うたらなんですけど、昔は着物を着まして付け紐の付いた帯を、あんなところじゃなかろうかと思うですね。若い人は知らんでしょうね。付け紐の付いた帯と言うても、付け紐の付いた帯が後にから結びに結んであると、信心の帯をすると云う事は、しっかりしっかり信心の帯をする腹が決まる。腹がしっかりすると云う事。
 是は何処に居りましても何をさせて頂くに致しましても、私共お願いしなければおられない子と。お願いしなければと云うよりもね、縋らなければおられないと云う事ですね。それは無力あるそれを、分からせて貰えれば分らせて貰う程、自分が何の力も無いのだ何の働きも無いのだと、本当に障子一重が侭ならぬ人の身だと、云う事が分かれば分かる程です、願うと言うよりも縋らなければおられんのだと。御礼を申し上げておる、お詫びを申し上げておる。
 御礼を申し上げても御礼を申し上げても、お詫びを申させて頂いてもお詫びを申させて頂いても何時も伴っておるのが願いである。それが私は縋らなければおられないと云う事だと思います。休ませて頂く時も、本当に御祈念させて貰わなければ居られん。今休ませて頂く前に御祈念させて貰ったんだから、もう布団の上に座って休ませて貰う時に、頼まんでもよかろうごたるけれど、矢張り拍手しなければ居られない。今から眠りに入らして貰う、休まして頂くともうその間でも矢張り不安である心許ないのである。
 是が私の場合それは、言うならもちろん、私だけの事だけかと言うと、私だけの事だけではない。その事はここに御縁頂いて居られる全部の者の事が、昨夜子供達と信心話して休ませて頂いた時が二時だった。もう遅いから御祈念は御無礼しようと言う訳にはまいりません。やっぱり御神前に座らなければ居られんのである。だからもう後はよかろうごとあるけれど、矢張り枕を前にして縋らなければ居られんのである。それは便所の中におろうが、何をさせて頂こうが。
 矢張り縋らなければ居られない事ばっかり。もうどれだけ願っても願っても願い足りない。いわゆる縋り足りない。私共が願うと言うよりも縋ると云う事。同じ様であっても矢張り違う様ですね。御祈念終らせて頂いてから私、御祈念終って拍手して又暫く座る事があるでしょうが何時も、ああもう御祈念済んだ、拍手も打った、けどまたふっと思い出す事がある。そしたらまた、その事を神様に聞き届けて頂けるまでは、頭が上げられん。そんな気がするのです。
 今日も御祈念終らせて頂いて、霊人様の前に出て御挨拶を申し上げよった。そんなら頭がですね、急にビシビシビシと、こう痛んだんです。今痛い訳ではありません。ああ今日は、自分の気にくわぬ事を願ったのかと思った。もう今日はこげん頭がビシビシするなら御用のだんじゃない。又すぐ願わなければ居られない。願わなと言うより、縋らなければ居られんのである。
 私はもう信心の帯をさせて頂いたらです、信心の帯が出来たらです、私は縋らなければ居られなくなって来るのじゃなかろうかと思うのです。それも神が見て居るとこう仰る。今日の御理解は、神の事をとやこう言う者がある。でもそれも矢張り神の比礼じゃと。神が見て居るから、いくら誰が何と言ったっていいのだと云う訳なんです。と、この前の所はそう申していました。
 神が見て居る、しっかり信心の帯をせよと。どう云う場合に直面致しましても、どの様な例えば私なら私の悪口を言う人があってもです、神様が見て居って下さるんだから、神様が聞いて居って下さるんだと言う所に、わざわざそれを言い訳をしようと言う気すら起こってこない。けれども矢張り神様には縋らなければ居られないのである。私は御神前に出て御祈念するのは朝、晩の御祈念だけ。
 私は御神前に出て、御祈念する事は非常に少ない。でも、何時もどこもが、御神前というその実感ですね。云うならば、祈りに明け暮れていると云う事。何時も祈って居らなければ居れないのである。例えば、お食事をさせて頂くでも、御神訓唱えていかにも、食物は人の命のために、作り与えられた物であるから、何を飲むにも食うにも、有り難く頂く心を忘れなよと。
 いかにも御神訓を頂いて居っても拝みよらん人がある。祈っていない人が居る。唱えるだけである。私は拍手を打って言いはせん。唱えはせん。けれどもそれがもう私の場合はそれが祈りなんです。だからあなた方のお取次の時には、拍手してから誰と言うよりもさっと中に入って行く。祈ったから縋らなければ居られんのだ。そこで皆さんの信心をひとつ思って頂きたいとこう思う。
 朝の御祈念にお参りしておるから、それではあまりもの信心だと、まあ言うならば付け紐の付いて居ると云う様な信心を乱してはいない。付け紐をして離れはせんぞと言うだけの、言わばしっかり腹に帯をせよと、しっかり信心の帯をせよと、しっかり信心の帯をせないかんと。信心の帯をしたらどの様な事になるかと、もうそれこそ、なるほど詫びが中心であったり、又は御礼が中心であるけれども。
 御礼の中に矢張り願わなければ縋らなければ居られないと言う、縋って縋って縋って縋り抜いて居らなければおられないと言う、そういう縋りというのが出来ると云う事縋らなければおられないと言う信心。そういう信心を私は信心の帯をしっかりしておる時じゃなかろうかとこう思うのですね。昨晩娘達と話をした事ですけれども、お父さんにどんなにあんた達が親孝行と言うても、どんな事をして呉れても言うて呉れてもです、あんた達が御神前に出て、御祈念をして居る時が一番親孝行だと申しました
 。あんた達が働いて私にお金をくれる。お父さんが喜ぶと思うて美味しいものを作ってくれる。成程嬉しい。けれどもより嬉しいのは、あんた達が真剣に御神前に行って御祈念をしている時だと。まあ是がお母さんの場合でもいいです。さあお昼にもう先生が下がられるからご馳走作っておく、お母さんがその手を止めてから、ああ先生が下がられると云う時に、ここに一緒に何分かの間でも。
 例えば一緒に御祈念をしてくれる時にもうお母さんはなんにも言う事はないと、云う時はそんな時なんだ。どんなにご馳走して待っておってくれても、それよりも嬉しいのはそういう時なんだと。云うなら家内が又は子供が又皆さんがです、真剣に祈っておる時、私は安心だ、私はそれが一番有難い、嬉しいんだと。そんなら私が嬉しいと云う事、喜ぶと云う事それがもし神様に通うとするならばです、銘々のです真剣な祈りが捧げられる。私は不思議で堪らん事がある。
 遠方からお参りして来きた人です、もうほんな二分か三分位で帰る人がある。こらこらあんたらここに何しに来たっのと云うてみたい気がする。御理解さえ頂きよらん。御理解とてもそういう様な内容を持って頂いても詰らん。云うならば私に本当に悪い時に、私に済みませんでしたと言う事いらん。本当に有難う御座いましたと御礼言う事いらん。その人が真剣に御神前に向かって、御祈念をして居るならばもうその詫びにも御礼にもなるんだと、まあそんな風な事を話した訳ですよ。
 ならそういう風な事がです、信心の帯をしっかりして居る時にはです、願わなければおられんのであり、縋らなければおられんのであると。縋る形はいわば御神前に座る御祈念の姿なんのだから。ところが家内が子供達の事を、どんなに行き届いた世話をしてくれよってもです頼みもしなければ、御取次も頂かんなら、私は心の中どうした人じゃろうかと思わんて。どれだけの事が行き届いてもそれが例えばよし出来ていなくても。例えば子供達が今日は遠足に参りますと、今日は運動会で御座いますと。
 今日はキャンプに参りますと、と云う事を御取次頂き、しかもそれをです、家内がここでもし祈り縋っておるならば、私はこんなに安心な事はない。又私としてはこんなに有難い御取次がしよい事はない。確かにそうなんです。是は私の家内の事を言いよるんですけれども、家内が何か修行始めますとあら又出て来ておると云う位御神前に出て来て居るのです。所が修行を疎かにしておる時には、もうそれこそ今日一遍も御神前に出て来なかったと云う感じなんです。
 修行でもさして頂く時には、矢張り信心の帯の出来て居る時です。ですから、矢張り御神前に出て来なければおられんのです。それも、祈りやら御礼やら言いよるとでしょうけれど、結局は縋らなければ、おられない訳なのです。神がみて居る、しっかり信心の帯をせよと、しっかり信心の帯をして、おかげを頂いて、行かなければなりません。しっかり信心の帯をする事がです、これが、金光大神の喜んで下さる事であると、同時に私も安心する事でもある。神様に喜んで頂くと云う事。
 先程子供達の事を申しました様に、どれだけの事をしてくれてもです、それが嬉しくないのじゃない。有難いけれども何をしてくれなくても、どうであっても真剣に、御広前に出て来て御祈念をしておる時、私はその子供の上に安心の気持ちと云うか、私の喜びはもうこれに過ぎる事はない。親孝行これより他ない。是が一番だと云う風に申しました様にです、それが信心の帯をしておかなければ親孝行も出来ない。信心の帯をしっかりしておかなければ、神様に喜んで頂く様な事も、いくら口で神様に喜んで頂ける様な信心にならせて下さいと云うても、信心の帯をせずして神様に喜んで頂ける様な信心は出来る筈はないと云う事ですね。
   どうぞ。